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癸酉年、叔父の首陽大君(世祖)が甥の端宗を廃位して政権を掌握(癸酉靖難)して王権を横取りしました。これに反対して端宗に対する忠節を守った代表的な臣下が、端宗復位計画を図り処刑された死六臣、そして官職を捨てて生涯端宗を追慕して草野でひっそり暮らした生六臣です。生六臣は、死六臣のように復位運動はしませんでしたが、世祖の王位を認めなかったため、地方へ行き生涯官職につかなかった臣下たちです。元昊先生は、首陽大君が端宗を寧越に追い立てると、近郊の松鶴面長谷里、現在の観瀾亭に泊まり込んで端宗の安否をうかがいました。端宗が魯山君に降等され寧越に埋められると、壇を立てて朝晩涙を流し、その墓へ向かってひれ伏し礼儀を尽くしたと伝えられています。その後、世祖が戸曹参議の職位を与えて呼びましたが、命がけで最後まで拒絶しました。元昊の死後、彼の子孫と儒学者たちはその忠義を称える碑石と東屋を建てるとともに、その横に遺墟碑を建て彼を追慕しました。観瀾亭は低い山ですが、その前に見える韓半島の形をした地形と流れる平昌江は、彼の忠心のように美しく広がっています。