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堤川チョンマル洞窟(忠清北道記念物第116号)

延世大学校博物館の洞窟探査団を率いたパルン孫宝基教授は、公州石荘里遺跡、堤川チョンマル洞窟遺跡などを発掘した韓国考古学の父と呼ばれる方で、各地の多様な考古学遺跡を発掘して、日本の植民史学(他律性論など)の主張を科学的・論理的に覆すと同時に、正しい韓国の歴史を知らせるため生涯を捧げた方です。1964年、パルン先生の研究チームは韓国で初めて公州石荘里遺跡を発掘する輝かしい功績を挙げました。先生の研究チームはその後も古代史を明かし、植民史観を阻止して正しい史観を継ぐため発掘を続けました。困難な環境の中でも、パルン先生の研究チームは7年以上も探索した末、1973年6月10日、堤川で古代史研究家として活動していたチョ・ソクトク氏の情報提供によって、遂に洞窟にたどりつきました。とりわけ洞窟の多い堤川の特殊な状況とその洞窟から出た大きな骨、角などを韓薬方で売っていた痕跡など…当時研究チームは情報提供を得て2日後すぐに洞窟へ入り、様々な骨遺物を4千点あまり収集し、同年11月3日にチョンマル洞窟の発掘を正式的に開始して、堤川地域、更には韓半島の数十万年の暮らしの様子、動植物などを発掘する成果を得ました(パルン先生の業績は、公州石荘里博物館でよく紹介されています)。現在、チョンマル洞窟は忠清北道記念物に指定され管理されており、堤川市ではチョンマル洞窟の考古学的意義を守ると同時に、2020年から周辺環境整備とチョンマル洞窟名所化事業を実施して、韓国先史時代を代表する遺跡として紹介していく計画です。

義林池及び堤林(名勝第20号)

湖西地方とは、湖の西の地方を意味しており、忠清道を指すまたの名です。この湖とは、今ご紹介する大韓民国名勝第20号義林池及び堤林のことです。義林池は韓国で最も古い貯水池で、古代から現在も利用されている農耕水利施設で、歴史的・文化的にその価値が付けられないほど重要な遺跡といえます。義林池の正確な築造年代は明らかではありませんが、高句麗に属した当時の名が奈吐だったことから、堤防築造時期は800年代と推定され、三韓時代に築造された貯水池と推測されています。その他にも、楽聖・于勒が築造したという説もありますが、明確な根拠はなく説としてのみ伝えられています。

堤川10景の第1景でもある義林池は、1807年に建立された映湖亭と1948年に建てられた鏡湖楼、1百~2百年余りの時を義林池と共に乗り越えてきた堤林(約400本の老松とヤナギの森)などが素晴らしい景色を作り上げており、楽聖・于勒先生がカヤグム(伽耶琴)を演奏したと言われる于勒台(燕子岩)をはじめ、振屧軒、湖月亭など多くの東屋と楼閣が建てられた記録が伝えられ、芸術家や詩人たちがよく訪れた格調高い文化空間であったことが分かります。
また、義林池は現存する最も古い農耕水利文化施設で、三韓時代から現在も使用されている点から、その意義は値が付けられないほど重要です。このような価値が認められ、義林池は現在最高の農耕水利文化貯水池の役割よりも、歴史的・文化的遊園地として発展しています。最高高さ162mの水景滝と全長250mの人口洞窟、義林池を眺望できるデッキロードと全長30mの自然滝の龍湫瀑布(滝)があるガラス展望台、義林池ボルレ道と第2義林池の飛龍潭生態森の道まで、多彩な観光資源を通じて格調高い文化観光を楽しむことができます。

玉荀峰(名勝第48号)

玉荀峰は、雨が降ると竹の子のように白く青い峰が南漢江沿いに美しく広がる、大韓民国第48号名勝地です。玉荀峰は、堤川10景の第8景で、玉荀峰休憩所から展望台まで5分ほど上がると、その秀麗な山の景色と力強い峰を鑑賞することができます。

玉荀峰は、昔からその美しい景色で有名画家、文人たちを魅了しました。実際に、退渓・李滉先生が丹陽郡守として在職中に、清風郡守に玉荀峰を丹陽に含めたい要望を伝えましたが断られ、玉荀峰の石壁に 丹丘洞門(丹陽の関門)と刻んだ話は有名です。学識高い退渓先生だっただけに、玉荀峰をそれほど気に入ったのでしょう。また、檀園・金弘道先生も清風の南漢江沿いを何度も歩き、実景山水画法で「玉筍峰図」を画帖に盛り込み、垂直な峰が空を支える構成を描いて、その神秘さが倍増する描写を残しました。(湖岩美術館所蔵)その他にも、地理誌『東国與地勝覧』には「奇妙な山の峰が調和をなして錦江さながらに山の峰がつづく山容は、絶妙なだけでなく、起伏と屈曲が自由奔放で、自然そのままの美しさを保った場所だ。」と絶賛し、李重煥先生は『択里志』で「玉荀峰はいくつもの峰がすべて石となって聳え立ち、まるで巨人が手をつないでいるようだ。」、とその素晴らしい景観を描写しました。
また、義林池は現存する最も古い農耕水利文化施設で、三韓時代から現在も使用されている点から、その意義は値が付けられないほど重要です。このような価値が認められ、義林池は現在最高の農耕水利文化貯水池の役割よりも、歴史的・文化的遊園地として発展しています。最高高さ162mの水景滝と全長250mの人口洞窟、義林池を眺望できるデッキロードと全長30mの自然滝の龍湫瀑布(滝)があるガラス展望台、義林池ボルレ道と第2義林池の飛龍潭生態森の道まで、多彩な観光資源を通じて格調高い文化観光を楽しむことができます。

徳周山城(忠清北道記念物第35号)

徳周山城は、地理的要衝地である関門城の形に築造された代表的な山城です。韓半島の中心部で慶尚道~忠清道~漢陽をつなぐ交通の要地だっただけに、独特な様式(四重山城)で防御要塞の役割を担ってきました。特に、月岳山の裾の稜線と渓谷を囲む自然石築の形状をしており、全周15㎞に達する大規模を誇っています。徳周山城は、第1城郭(内城)磨崖仏(上徳周寺)渓谷周辺に築城、第2城郭(中城)徳周寺東門から南北に築城、第3城郭(下城、遮断城)徳周谷入口周辺に築城、第4城郭(外郭城)松界渓谷全体に築城され、各城郭の築造年代が各々異なり、韓国高麗時代~朝鮮時代の城郭研究において重要な資料と評価されています。

また、徳周山城は四重山城の特徴だけでなく、至る所に水源(渓谷)があるため、天恵の要塞といっても過言でないほど、歴史の中で幾度も登場しました。まず、モンゴルの8次侵入によって忠州城が攻め落とされると、周辺の住民はここに避難しました。モンゴル軍が彼らを追って攻撃しましたが、突然空に黒い雲がかかり、強風と雷、雨とひょうが降り注いだため、驚いたモンゴル軍が「ここは神が守る場所だ。」と言い退却したというストーリーは最も有名です。また、明成皇后閔氏にまつわるストーリーも伝えられています。興宣大院君との政戦で敗色が濃くなると、ここを月岳宮(離宮)にして宮殿を建てるよう命じ、1894年に完成しました。しかし、乙未事変により明成皇后が日本により弑殺されると、日本は離宮を取り壊して別の建物を建てるのに使用しました。現在は、寒松小学校前に跡地としてのみ残されています。

望月山城(忠清北道記念物第93号)

南漢江沿いの望月山(373m)頂上部にある石城址で、現在は堤川文化財団地の頂上を占め、清風湖の秀麗な景観だけでなく、文化的遺産も鑑賞できる遺跡です。漢江の水路も見渡せる眺望が素晴らしい望月山城は、高句麗、百済、新羅の戦略的要衝の地で、中原でも多大な影響力を発揮しました。上記の問題に正解した方いらっしゃいますか?(堤川市の物知り博士に認定します) はい、正解は①、②、③番です。順番に、百済時代、高句麗時代、統一新羅時代以降の望月山城を指す名称だからです。それだけ熾烈だった争いを傍証しており、また三国の築城の特徴がすべて発見され、三国時代の築城方法研究において重要な考証資料となっています。

神勒寺と神勒寺三層石塔(宝物第1296号)

神勒寺は、新羅時代に阿道和尚が582年に創建し、その後元曉大師が修繕して、無学大師、四溟大師など有名な禅師たちにより改築され、今日も千年歴史が宿る寺として残っています。文禄・慶長の役により廃寺になった寺は何度も修造され、山神閣、寮舍が設けられ現在の姿になりました。小規模でも千年の歴史を誇るだけに、独特な文化財が散在しています。まず、最も有名なのが、大韓民国宝物第1296号の神勒寺三層石塔です。神勒寺三層石塔は、新羅時代末期から高麗時代初旬の石塔様式の典型的な形をしており、その時代の石塔研究において重要な資料と評価され、1981年解体・復元時に基壇内部から発見された小型塔108基と舍利函の破片などは、現在国立清州博物館に所蔵され公開されています。その他にも、朝鮮時代中期に修造された神勒寺極楽殿(忠清北道有形文化財第132号)、華やかな彩色が印象的な極楽殿の壁画と丹靑(忠清北道有形文化財第301号)なども鑑賞できます。

徳周寺と徳周寺磨崖如来立像(宝物第406号)

正確な建立年代は未詳ですが、東国輿地勝覧、新増東国輿地勝覧などの著名な史書に「麻衣太子と徳周公主」の説話についての文献が残されています。千年歴史の新羅を敬順王が高麗王朝の太祖王建に捧げると、国が滅びたことに嘆いた麻衣太子と徳周公主(または徳摯王子)は金剛山へ身を潜めに行く途中、北斗七星が見える明堂で月岳山の精気がまるで金剛山のようだと言い、ここで磨崖仏を彫って徳周寺を創建し、金剛山で草木根皮の余生を終えた亡国の王子・麻衣太子を生涯懐かしみ一生を送ったという悲しい伝説が伝えられている寺です。徳周寺は、上徳周寺、下徳周寺と呼ばれるほど規模が大きく、朝鮮時代の方略政策に「徳周寺を修理してたくさんの味噌と塩を予備することを南漢山城の例のようにする」などの文章から、朝鮮時代まで僧軍、物資、防御に至るまで方略・戦略の機能を果たした寺でした。その後、韓国戦争時には武装スパイが潜む場所になり得るためすべての殿閣が取り壊されましたが、修造を続けて今日に至ります。

また、「麻衣太子と徳周公主」の説話では、大韓民国宝物第406号に指定された磨崖仏にまつわる説話を欠かせません。磨崖仏は、新羅末期から高麗初期の重要な石仏様式を示す仏像で、文化財としての価値も優れており、また亡国の悲哀と美しい姉弟愛などが感じられる伝説は、その価値を一層輝かせているように思えます。磨崖仏に登場する伝説は、慶州で麻衣太子と徳周公主一行が月岳山にたどり着くと、美しい風景を見て金剛山に来たようだと言いここに留まり、麻衣太子は弥勒仏、徳周公主は磨崖仏に変わり一年に一度会うという説(実際に、磨崖仏は南向き、弥勒仏は仏像にしては珍しく北向きに置かれています)、金剛山へ去って行った麻衣太子を懐かしみ徳周公主が弟との別れの悲しみに耐えきれず磨崖仏に変わったという伝説などがあります。

長楽寺址 七層模塼石塔(宝物第459号)

長楽寺址七層模塼石塔(宝物第459号):模塼石塔は、韓国では珍しい塔の形をしており、石を壁石の形に削って積み上げた塔で、レンガなどを集めて塔の形を模倣して積み上げられたことから模塼塔と呼ばれています。特に、この塔は灰黒色の粘板岩でつくられた模塼塔で、現在高さ9.1m、建立年代は塔の形式や石の加工手法から統一新羅末期と推定されています。全体が七層に達する高い塔ですが、各層の比率が合い、おごそかな雰囲気を醸しだしています。韓国戦争時に大きな被害を被り崩れる寸前でしたが、1967年に解体・復元されました。当時、七層の屋根石の上から花模様が立てられた青銅の破片が発見され、塔のてっぺんの相輪部は青銅でつくられたと推定されています。模塼石塔があった長楽寺址は、堤川で初めて発見された三国時代の仏教遺跡で、2003年から2006年まで試掘調査が1回、発掘調査は3回行われ、様々な遺物が出土しており、古代文化の伝播経路と堤川地域の古代歴史研究において貴重な資料として活用されています。

獅子頻迅寺址 四獅子 九層石塔(宝物第94号)

獅子頻迅寺址四獅子九層石塔は、国の安寧と平和を祈って生まれた護国仏教的な性格が強く、その意味は格別です。また、獅子塔という特殊な形態の石塔(異形塔)様式を用いた点、各部の構造、様式、彫刻手法などから年代が確実で、他の石塔の建造年代推定の基準となる作品だという点から、韓国石塔界では類のない位置を占めている宝物です。

勿台里 石造如来立像(宝物第546号)

勿台里石造如来立像は、堂々とした肩、ふっくらとした表情などは統一新羅の形式を示し、同時にリアリズムとは距離がある手、塊体化した身体などは高麗時代の形式を帯びており、高麗時代の堤川地域の仏教文化が分かる重要な文化財といえます。水が貴重だった昔に、水が豊富だった場所で造られただけに、厚みがあり福々しく慈悲深い仏の風貌がよく表れているように見えます。勿台里は、忠州ダムの建設により清風湖にほとんどが水没し、現在は清風文化財団地内の保護閣に祀られています。

寒碧楼(宝物528号)

寒碧楼は、大韓民国3大東屋の1つと言われるほど素晴らしい風光を誇っており、水没前にはその秀麗な自然景観と調和して一幅の絵を連想させ、尤庵・宋時烈、秋史・金正喜など有名な文人たちが扁額、懸板を残した有名な楼閣です。高麗時代後期に客舎として建てられた楼閣であり、簡素ながらも上品な外観は、朝鮮時代に自然に憧れた儒生たちにより漢詩、絵などのテーマとしてよく登するなど、檀園・金弘道などが訪れ数多くの絵を描き、柳成龍、権尚夏、丁若鏞などが漢詩、詩文を残しました。朝鮮時代の士大夫(文人)たちの詩会の代表格だった寒碧楼で好きな詩集を詠んでみるのもロマンチックです。

元昊遺墟碑及び観瀾亭(忠清北道記念物第92号)

癸酉年、叔父の首陽大君(世祖)が甥の端宗を廃位して政権を掌握(癸酉靖難)して王権を横取りしました。これに反対して端宗に対する忠節を守った代表的な臣下が、端宗復位計画を図り処刑された死六臣、そして官職を捨てて生涯端宗を追慕して草野でひっそり暮らした生六臣です。生六臣は、死六臣のように復位運動はしませんでしたが、世祖の王位を認めなかったため、地方へ行き生涯官職につかなかった臣下たちです。元昊先生は、首陽大君が端宗を寧越に追い立てると、近郊の松鶴面長谷里、現在の観瀾亭に泊まり込んで端宗の安否をうかがいました。端宗が魯山君に降等され寧越に埋められると、壇を立てて朝晩涙を流し、その墓へ向かってひれ伏し礼儀を尽くしたと伝えられています。その後、世祖が戸曹参議の職位を与えて呼びましたが、命がけで最後まで拒絶しました。元昊の死後、彼の子孫と儒学者たちはその忠義を称える碑石と東屋を建てるとともに、その横に遺墟碑を建て彼を追慕しました。観瀾亭は低い山ですが、その前に見える韓半島の形をした地形と流れる平昌江は、彼の忠心のように美しく広がっています。

紫陽影堂(忠清北道記念物第37号)

朝鮮時代末期の儒学者、柳重教(性理学者・李恒老の弟子)が後学養成のため1889年に建てた書堂で、その後旧韓末(大韓帝国期)の堤川義兵の唱義発祥の地となり、堤川義兵が全国へ広まるための思想的・戦略的基盤を築いた教育機関です。柳重教は、朱熹(朱子)、宋時烈、李恒老の遺影を祀って、定期的にここで参拝をしました。その後、柳麟錫をはじめとする師の意志を受け継いだ儒生たちは、1895年短髪令に直面してどう身を処するべきか悩み、義兵を起こして親日官僚たちを処断して、堤川義兵の活動の発端をつくりました。その後、柳重教、柳麟錫、李紹膺等も一緒に祀り、毎年春香祭(旧暦3月20日)、秋享祭(旧暦9月20日)に祭祀を執り行っています。堤川市では、紫陽影堂整備事業を推進して堤川義兵の魂を称えて崇義祠を建て、「湖左倡義陣」の旗と「朝鮮末13道義軍都総裁毅菴柳先生麾下諸賢神位」を奉安して、毎年10月に堤川義兵祭を催して告由祭を行っています。

舟論聖地(忠清北道記念物第118号)

「舟論」という名称は、地形がまるで船の底のような形をしていることから付けられた名で、狭い入口に傾斜が斜めにあった内側の地形がよく見えないのと、周辺が山に囲まれ、原州、忠州など様々な都市とつながる山道が多いのが特徴です。朝鮮時代、カトリックは迫害された宗教だったため、信者たちはこのような要塞のような場所で自らの信仰村を形成して暮らしました。また、舟論聖地は迫害にも屈することなくカトリック精神を受け継いだ場所で、「韓国最初の神学堂」「尊者・崔良業トーマス神父の墓」「黄嗣永帛書」など韓国カトリック歴史の重要なページを拓いた信仰遺産が溢れています。

「汗の宣教者」崔良業トーマス神父(韓国で2番目に叙階されたカトリック司祭)

2016年4月26日、「汗の宣教者」と呼ばれる崔良業トーマス神父に対して教皇庁列聖省は「尊者」を宣言しました。「尊者」とは、「列聖(ある者を聖人として宣言する行為で、その宣言によってその人物は聖人の列に加えられると同時に、即時に聖人として認められ全世界の教会で敬われる)」の前段階で、「アウグストゥス(尊厳者)」という称号が授けられ、列福の手続きを経る過程で列福候補者に暫定的に与えられます。(現在、福者認定のため奇跡審査が教皇庁列聖省で行われており、殉教者ではなく証聖者として列に上げられるのは世界初だというので大変意味深いです)

崔良業トーマス神父は、崔京煥フランシスコと李聖礼マリアを迫害により失い、幾度も逃避生活を強いられましたが、信仰心は失いませんでした。ソウルへ上京して15歳の頃にフランス宣教師より金大建等と共に神学生として選抜され、マカオへ留学して司祭叙階を受けました。帰国後、活動のため中国、遼東地域で司牧して機会をうかがい、結局13年が過ぎた頃に成功して、1日100里余り、毎年約2,800㎞の山間僻地を自らの足で歩き回りながらミサを執り行いました。11年以上の歳月の間司牧して、カトリックの信仰を伝えながら身分制度廃止などを主張し、社会改革のための努力も惜しみませんでした。その後、彼は司牧活動の報告のためソウルへ行く途中、過労と腸チフスにより善終(死を迎える)しました。

黄嗣永帛書事件

黄嗣永は、16歳で科挙に及第した将来有望な少年だったといいます。茶山・丁若鏞の姪の夫で、この家で西洋学問に触れ勉強しました。その後、カトリックに対する迫害が起こると、黄嗣永はこの洞窟で教会の再建と信仰の自由を得るため主教に送る手紙を書きました。この帛書は、現在バチカン美術館古文書研究室に展示されており、横62㎝、縦38㎝の小さなシルクの切れ端に1万3311文字の漢字がびっしりと、誤字なく記されているのが不思議です。全体的な内容は、迫害を防いで信仰の自由を得るため、カトリックを布教する方案について、また外勢の軍隊を利用して政府を覆そうとする反乱的要素が含まれ、検問に引っかかり、黄嗣永は大逆罪として車裂きの刑に処されます。この帛書により、朝鮮のカトリック迫害は一層激化しました。そのため、黄嗣永は殉教者でありながらも長い間列福列聖に上がらず、2013年に教皇庁列聖省により尊者の前段階である「神の僕」の称号が公式的に与えられました。

聖ヨセフ神学校(韓国初の神学校)

フランス人のカトリック神父が設立した韓国初の神学校で、哲学と神学を忠心に西洋学問と文物を教えました。ラテン語を中心に、一般常識、科学知識、医術、地理学など多様な分野を扱い、布教活動と小中高校教育を同時に行った近代学校の役割を担いました。その後、カトリック迫害が激化すると、多くの公職者が殉教して神学生たちもばらばらになり、学校は創立11年で閉鎖されてしまいました。

‐日本による植民地時代(ダークツーリズム)

堤川には先史時代、三国時代、高麗時代、朝鮮時代に至るまでの中原圏文化の代表性を帯びた遺跡と遺物があります。しかし、日本による植民地時代の遺物は不思議なことに発見されていません。これは、堤川歴史に悲しい秘密があるからです。儒生から民衆に至るまで3次にわたり活発な義兵活動の中心地として日本より目の敵にされた堤川は、丁未義兵以降に日本の討伐作戦により市内の官舎までもがすべて灰となり、現在も100年以上の歴史を持つ建物がないほど焦土と化しました。むろん、今ご紹介する残存文化財も堤川の民生よりも天恵の交通網を利用した収奪にのみあくせくした日本による植民地時代の闇が刻まれたもので、これを通じて当時の堤川の悲劇と今の奇跡のような発展を間接的に感じることができます。

葉煙草生産組合収納取扱所(国家登録文化財第273号)

葉煙草収納取扱所は、栽培した葉タバコを集めて熟成させた場所で、堤川地域に葉煙草収納取扱業務が増加すると、L字型の平面に近代木造構造で作業順序に合わせて機能と効率性を考慮して配置され、1943年再建築された建物です。円形レール、湿度調節装置、換気口など葉タバコ施設の特性がよく表れており、建築当時の木造トラスやボルトが原型のままよく保存され、近代期の葉タバコ産業の代表的な施設として大きな価値を持っています。

葉煙草生産組合旧社屋(国家登録文化財第65号)

1918年堤川葉煙草耕作組合の旧社屋で、アーチ形の玄関、木造建築など近代の雰囲気を強く醸しだしています。日本による植民地時代の近代化時期の過渡期的建築様式と業務施設の特徴がよく表れており、関連研究のための有用な資料とされています。

大韓通運堤川営業所(国家登録文化財第56号)

1941年に花崗岩を積み上げて建てた組積式構造の建物で、韓国式の組積(卍型)方式が取り入れられ、組積方式や屋根などから韓国的な印象を強く与えているのが特徴です。日本の収奪が頂点に達した1941年、慶北~ソウル路線の中間地点である堤川駅の開通とともに営業が開始され、様々な山林・地下資源を収奪する中心的役割を果たしました。現在は一般の飲食店として運営されています。

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